【第3回】浜の台所くぁせっと 〜松川浦、観光復活へのチャレンジ
〜震災が仲間を作った〜
個人の話から、松川浦の地域全体の話に移ってきた。
はたして、地域の中での関わりはどうだったのだろう。
「松川浦では、同じ旅館業を営んでいても、同業者は「商売敵」ではなく「商売仲間」として一致団結してやっています。何かやろうとするときは、全体に声をかけて、明け透けに話し合うようにしています。そうしないとやっていて楽しくないですから。そのための雰囲気づくりは、とっても大事です。」
松川浦の若手世代の結束と活動は、やがて注目されるようになり、環境省からの提案で「松川浦ガイドの会」を結成することにつながっていく。
若手中心に、松川浦の自然環境とガイドの勉強をしていくうちに、改めて「地元の宝」に気づくようになっていった。
こうして、松川浦ガイドの会では、「干潟の奇妙な生物探検隊」ツアーや、漁船に乗って漁師の方々から海苔の養殖やその他水産業のお話が聞けるエコツアーなど、地元ならではの魅力的なツアーを企画していく。
(参照:松川浦ガイドの会ホームページ)
このガイドの会では、それぞれの持ち味や「得意技」を結集して、新たな挑戦を続けているようだ。
さて、管野さんの「得意技」とは?
「自分のバックグラウンドで役立ったことといえば、『数字が好きだった』ということです。高校を卒業してから簿記の専門学校に行ったんです。1年生の時には、すでに「全経簿記(全国経理教育協会簿記)の上級」に合格していました。」
その時はピンと来なかったが、この試験の合格率は2〜3%、合格すると税理士試験を受ける資格が得られるなど、かなりの難関。それを突破するとは!
「専門学校を卒業後は、税理士事務所で2年間働きました。今思えば、その時の経験が後でずいぶん役に立ちました。その事務所で様々な案件・ケースを見させてもらったので、ホテルみなとやの事業再開のための銀行向け資料や、くぁせっとの事業計画書作りにも、このときの経験が役立っています。」
「天の配剤」とは、こういうことを言うのか、まさに必要な時に、必要な人材がそこに遣わされていたのだ。
管野さんの「数字好き」、簿記の知識、税理士事務所での経験が、震災からの復興にこのように役立つとは、管野さんご自身もわからなかっただろう。
あの震災も何かしらの「積極的な意味」を持つものなのかもしれない。
そう思えてきて、敢えて聞いてみた。
「管野さんにとって、東日本大震災とはなんだったのか?」と。
「間違いなく言えることは、あの震災がなければ、今こうして仲間と一緒にやっていない、ということです。自分だけでなく、他の人も同じように困っていた。誰もがケツに火がついていたんです。『本気で頑張らなきゃ』と、スイッチが切り替わりました。」
前述した通り、当時、政府や行政は、次々に補助金を用意したものの、肝心のその支援を受けたい人たちは、申請書類の作成・手続きに不慣れで、きちんと申請できる者が限られていた。管野さんたち若者世代が、まさに立ち上がり、何かしらアクションを始めようとした時、インターネットで、ある「団体向けの補助金」の情報をつかみ、その締め切りが2週間後に迫っていることを知った。
「それはもう頑張りましたよ。この補助金をもらわなければ、皆んな二重ローンでやられてしまいますから。まさに必死でした。若者があちこち駆けずり回り、エクセルやワードを使って、寝ずに書類を作りました。補助金が採択された時には、それこそ鳥肌が立ちましたよ。」
管野さんたち若者の頑張りが実を結び、手に入れた10億5千万円の補助金が、風前の灯だった松川浦の旅館街を救った。
「この経験を通して、皆んなで一生懸命になって頑張ればなんとかなる、ということがわかりました。行政も、こっちが一生懸命だと、向こうも一生懸命にやってくれるんです。ひとりだけでなく、皆んなで勝ち取ることができた。震災が仲間を作ったんです!」
震災が仲間を作った。
この一言が、どんなに多くの希望をもたらすことだろう。
震災のことを被災した人たちにインタビューしたら、多少なりとも気の毒に思ってしまうのではないか。
今や、そんなことを考えていたちっぽけな自分を恥じていた。
まさに自分の前には、我が身に降りかかった災難を押しのけ、威風堂々、前を向いて歩いている人物がいるのだから。
最後に、管野さんの今後の抱負について訊いた。
「今は、くぁせっとに注力しています。震災後10年目にしてやっと、念願の観光のための施設ができた。このチャンスを逃したら、松川浦の観光の復活は難しい。これからが勝負です。松川浦の強みは、なんといっても美味い魚。『やっぱり松川浦って、新鮮で美味しい魚が安くてたらふく食べられるよね』、『松川浦に美味いものを食べに行こうかな』、そういうお客さんをたくさん呼びたいんです。それから、今はシニアの方々が中心ですが、近くに「こども公園」ができたので、お子様づれのご家族がここに食べに来るという流れを作りたいですね。当面の目標は、お客さんの車で渋滞を作ることです。かつて『浜焼き』の光景があった頃、潮干狩りや海水浴客も含めて、車の渋滞ができたように。もう一度、その渋滞が見たいです。」
家族づれで、浜に美味しいものを食べにいく。なんと懐かしくも美しい日本の風景だろう。想像するだけで幸福な気持ちが満ちてくる。
管野さんの「くぁせっと(食わせるぞ!)」精神は、この土地に明るく温かな家族の風景を作っていくことだろう。
「震災で消えそうになった観光の灯を次世代につなぐ。これだけは必ずやります。」
強い決意の表情の中で、さっきからなんだかニヤニヤと楽しそうだ。
「とにかく仲間と一緒に楽しみながらやっていきたいです。観光客は、楽しむためにやってくるんですから、自分たちが楽しくないとダメじゃないですか。」
美味しいものは間違いなく人を元気にさせる。
この道ばたで、串に刺した新鮮な魚介類を炭火で炙る。
そして、それを頬張る家族づれや、仲間たち。
そんな幸せな風景を再び見ることができるのは、案外すぐ先の未来かもしれない。
松川浦ウォーキングコース(出典:相馬市観光協会)
【追記】
松川浦では、ウォーキングコースも整備されている。
ぜひ、歩いて自然を体感し、美味しい料理を堪能してはいかが?
(参照:相馬観光ガイド「松川浦でウォーキング」)
筆:渡辺マサヲ
個人の話から、松川浦の地域全体の話に移ってきた。
はたして、地域の中での関わりはどうだったのだろう。
「松川浦では、同じ旅館業を営んでいても、同業者は「商売敵」ではなく「商売仲間」として一致団結してやっています。何かやろうとするときは、全体に声をかけて、明け透けに話し合うようにしています。そうしないとやっていて楽しくないですから。そのための雰囲気づくりは、とっても大事です。」
松川浦の若手世代の結束と活動は、やがて注目されるようになり、環境省からの提案で「松川浦ガイドの会」を結成することにつながっていく。
若手中心に、松川浦の自然環境とガイドの勉強をしていくうちに、改めて「地元の宝」に気づくようになっていった。
こうして、松川浦ガイドの会では、「干潟の奇妙な生物探検隊」ツアーや、漁船に乗って漁師の方々から海苔の養殖やその他水産業のお話が聞けるエコツアーなど、地元ならではの魅力的なツアーを企画していく。
(参照:松川浦ガイドの会ホームページ)
このガイドの会では、それぞれの持ち味や「得意技」を結集して、新たな挑戦を続けているようだ。
さて、管野さんの「得意技」とは?
「自分のバックグラウンドで役立ったことといえば、『数字が好きだった』ということです。高校を卒業してから簿記の専門学校に行ったんです。1年生の時には、すでに「全経簿記(全国経理教育協会簿記)の上級」に合格していました。」
その時はピンと来なかったが、この試験の合格率は2〜3%、合格すると税理士試験を受ける資格が得られるなど、かなりの難関。それを突破するとは!
「専門学校を卒業後は、税理士事務所で2年間働きました。今思えば、その時の経験が後でずいぶん役に立ちました。その事務所で様々な案件・ケースを見させてもらったので、ホテルみなとやの事業再開のための銀行向け資料や、くぁせっとの事業計画書作りにも、このときの経験が役立っています。」
「天の配剤」とは、こういうことを言うのか、まさに必要な時に、必要な人材がそこに遣わされていたのだ。
管野さんの「数字好き」、簿記の知識、税理士事務所での経験が、震災からの復興にこのように役立つとは、管野さんご自身もわからなかっただろう。
あの震災も何かしらの「積極的な意味」を持つものなのかもしれない。
そう思えてきて、敢えて聞いてみた。
「管野さんにとって、東日本大震災とはなんだったのか?」と。
「間違いなく言えることは、あの震災がなければ、今こうして仲間と一緒にやっていない、ということです。自分だけでなく、他の人も同じように困っていた。誰もがケツに火がついていたんです。『本気で頑張らなきゃ』と、スイッチが切り替わりました。」
前述した通り、当時、政府や行政は、次々に補助金を用意したものの、肝心のその支援を受けたい人たちは、申請書類の作成・手続きに不慣れで、きちんと申請できる者が限られていた。管野さんたち若者世代が、まさに立ち上がり、何かしらアクションを始めようとした時、インターネットで、ある「団体向けの補助金」の情報をつかみ、その締め切りが2週間後に迫っていることを知った。
「それはもう頑張りましたよ。この補助金をもらわなければ、皆んな二重ローンでやられてしまいますから。まさに必死でした。若者があちこち駆けずり回り、エクセルやワードを使って、寝ずに書類を作りました。補助金が採択された時には、それこそ鳥肌が立ちましたよ。」
管野さんたち若者の頑張りが実を結び、手に入れた10億5千万円の補助金が、風前の灯だった松川浦の旅館街を救った。
「この経験を通して、皆んなで一生懸命になって頑張ればなんとかなる、ということがわかりました。行政も、こっちが一生懸命だと、向こうも一生懸命にやってくれるんです。ひとりだけでなく、皆んなで勝ち取ることができた。震災が仲間を作ったんです!」
震災が仲間を作った。
この一言が、どんなに多くの希望をもたらすことだろう。
〜松川浦観光の復活に向けて〜
震災のことを被災した人たちにインタビューしたら、多少なりとも気の毒に思ってしまうのではないか。
今や、そんなことを考えていたちっぽけな自分を恥じていた。
まさに自分の前には、我が身に降りかかった災難を押しのけ、威風堂々、前を向いて歩いている人物がいるのだから。
最後に、管野さんの今後の抱負について訊いた。
「今は、くぁせっとに注力しています。震災後10年目にしてやっと、念願の観光のための施設ができた。このチャンスを逃したら、松川浦の観光の復活は難しい。これからが勝負です。松川浦の強みは、なんといっても美味い魚。『やっぱり松川浦って、新鮮で美味しい魚が安くてたらふく食べられるよね』、『松川浦に美味いものを食べに行こうかな』、そういうお客さんをたくさん呼びたいんです。それから、今はシニアの方々が中心ですが、近くに「こども公園」ができたので、お子様づれのご家族がここに食べに来るという流れを作りたいですね。当面の目標は、お客さんの車で渋滞を作ることです。かつて『浜焼き』の光景があった頃、潮干狩りや海水浴客も含めて、車の渋滞ができたように。もう一度、その渋滞が見たいです。」
家族づれで、浜に美味しいものを食べにいく。なんと懐かしくも美しい日本の風景だろう。想像するだけで幸福な気持ちが満ちてくる。
管野さんの「くぁせっと(食わせるぞ!)」精神は、この土地に明るく温かな家族の風景を作っていくことだろう。
「震災で消えそうになった観光の灯を次世代につなぐ。これだけは必ずやります。」
強い決意の表情の中で、さっきからなんだかニヤニヤと楽しそうだ。
「とにかく仲間と一緒に楽しみながらやっていきたいです。観光客は、楽しむためにやってくるんですから、自分たちが楽しくないとダメじゃないですか。」
美味しいものは間違いなく人を元気にさせる。
この道ばたで、串に刺した新鮮な魚介類を炭火で炙る。
そして、それを頬張る家族づれや、仲間たち。
そんな幸せな風景を再び見ることができるのは、案外すぐ先の未来かもしれない。
松川浦ウォーキングコース(出典:相馬市観光協会)
【追記】
松川浦では、ウォーキングコースも整備されている。
ぜひ、歩いて自然を体感し、美味しい料理を堪能してはいかが?
(参照:相馬観光ガイド「松川浦でウォーキング」)
筆:渡辺マサヲ