WALKER'S 東北復幸のいま 歩くことで伝えられるコト

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2021年6月7日

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【第2回】浜の台所くぁせっと 〜松川浦、観光復活へのチャレンジ

〜2011年3月11日、あの日あの時〜


ホテルみなとや、1階が水に浸かった
震災前の松川浦、潮干狩りの名所だった(出典:mapio)
震災直後の松川浦(出典:東洋経済)
震災直後の様子、遠くに火力発電所が見える(出典:東洋経済)
ホテルみなとや、1階が水に浸かった
震災前の松川浦、潮干狩りの名所だった(出典:mapio)
震災直後の松川浦(出典:東洋経済)
震災直後の様子、遠くに火力発電所が見える(出典:東洋経済)

2011年3月11日の震災当時のことを訊いてみた。
あの時、管野さんはどこにいて、どのような体験をされたのだろう。
この質問は、直接大きな被害を受けなかった者にとっては、ある種の「後ろめたさ」がある。どんなに想像してみても、完全に共感できたとは言えない。被害を受けた人々と受けなかった者との間には、それほど大きな隔たりがある。
けれど、あの震災は、ほとんどの日本人にとって、その当時どこで何をしていたか具体的に語ることができる「共通体験」でもあるのだ。

「震災当時は35歳でした。あの日は金曜日で、土日は市場が休みなので、土日と翌週のお客様に食べていただくカニを、100万円ほど大量に買って、生け簀に入れて、お客様を迎える準備をしている最中でした。そうしたら、突然大きくて長い揺れがやってきたんです。目の前の漁港の埋め立てたところが地割れして、水がピューっと吹き出てました。ホテルの建物が壊れるかもしれないからと、急いで家族と従業員を車に乗せて、とりあえず地元の小学校まで避難しました。」

靴を履き替える間もなく、皆んな準備作業の長靴のままで、急いで避難したそうだ。

「その小学校は高台にあって建ったばかりだったんです。子どもたちも当時はその小学校にいました。ほかの親たちも続々と校庭に集まってきていました。すると、誰かがラジオで『津波が来てるみたいだよ』と言いだしました。最初は『3mだってよ』と言ってたのが、『6mだって』『いや10mだってよ!』と、どんどんレベルが上がって、みな『えーっ!』ってなりました。急いで先生方とも話し合って、とりあえず皆んな校舎の3階に避難することになりました。そうしたら、みるみるうちに水がやってきて、田んぼに家が流れてくるのが見えたんです。『もうここで夜を明かすしかないな』と皆んなで判断しました。すごく寒くて、お年寄りもいっぱい避難していたから、毛布代わりにしようと、カーテンを外していました。」

そうだ。僕らは地震や津波ばかりに気をとられているけれど、あの時の東北地方は、寒さも相当なものだったのだ。

「そのうちに、ある猛者が様子を見に出て行って、夜6時ごろに救援のバスが1台、なんとか校舎の近くに到着できたんです。皆んなそのバスに乗って避難できました。避難したものの、電気やガスは全て止まっていましたけれど。」

今回のインタビューに当たって、僕は事前にYouTubeで、松川浦に押し寄せる津波の映像を見ていた。

松川浦に押し寄せる津波 【視聴者提供映像】


管野さんにそのことを告げると、

「ああ、あれですね。(ホテル)みなとやの隣の高台から撮っていたみたいですよ。みなとやは、1階の天井部分までは水に浸かりましたけど、建物はちゃんと残りました。松川浦の旅館街も幸いにして残りました。どうも、松川浦の砂州がクッションになって、津波の衝撃をやわらげてくれたようです。」

松川浦の旅館街が残った。そしてホテルみなとやも、1階が水に浸かっただけで、2階にあった厨房も客室も無事だった。
これが管野さん一家にとって、再起のための杖になる。

〜再起の時〜


「津波の翌日は原発事故もあって、家族全員、山形まで知り合いを頼って避難しました。温泉旅館の人たちが親切で、3週間くらいそこに滞在していたら、ホテルみなとやのお隣さんから電話があって、『管野さん、おたくのカニが腐って臭うから始末しに戻ってくれ』って。津波で仕入れたカニも海に戻ってくれてたらよかったんだけど、戻ってみたら、生け簀がひっくり返って閉じ込められて、そのまま死んでしまっていたんです。いやぁ、かわいそうなことをしました。」

カニの後始末のために戻ってみると、宿泊施設を必死で探していた人々がいた。

「松川浦に帰ってみたら、火力発電所の作業員の方たちが、泊まるところがなくて困っていたんです。」

当時、この地域では原発が止まり、ひっ迫していた電力をまかなうため、火力発電所の早急な復旧が求められていたのだ。
しかし、その一方で、作業員の勤務環境は厳しかった。

「泊まるところがなくて車の中で寝ている人もいました。そんな状況なので、作業員を集めるのにも苦労していたみたいです。幸いみなとやは、2階が厨房になっていて、食事の提供もできる。『そういうニーズがあるんだったらやるしかない!』と、急いで書類を準備して、金融機関から融資を受けて、10月3日から営業を再開しました。」

後述するが、管野さんの「得意技」は、数字と書類作成だった。
このインタビューの後で、管野さんのお母様で、ホテルみなとやの女将さんともお話させていただく機会があった。お母様曰く、「いやぁ、あの時は頼もしかったです。お父さんが、この先どうしようかと言ってたら、息子が「俺がなんとかする!」って張り切り出したんですよ。」とのこと。
ホテルみなとやの再起ばかりでなく、この時の管野さんの頑張りは、作業員へのきちんとした宿泊場所の提供、ひいては、十分な作業員の確保につながり、火力発電所の復旧作業の進捗にも多大な貢献をしたと言えるだろう。

「作業員の中には北海道から来ていた人もいました。盆と正月しか帰らない長期滞在です。宿は常に100%超の稼働率で、大広間で雑魚寝している人もいたくらいです。それでも、足を伸ばして眠れるということで、かなり感謝されました。自分のホテルでの仕事は営業でしたが、常に100%超稼働しているので、営業に行く必要がなくなり、時間に余裕ができました。空いた時間で、あれこれ話し合いに顔を出していたら、そのうちにいろいろ任されるようになってきました。特に、行政からの補助金の手続きや書類作業を手伝ったんです。」

当時、政府や自治体は、復興に向けた補助金を次々に用意したが、その補助金を得るためには、「複雑な」申請書類を用意しなければならなかった。年配の旅館経営者にとっては、その書類の作成が大きな障害になっていたのだ。

「パソコンを扱えない人たちが多かったんです。書類を手書きで作ろうとしたら、もう大変な作業です。だいたいこの時から、世代交代が進みました。」

このときを機会に、若い世代が立ち上がり、テクノロジーを駆使して復興を引っ張っていくようになる。
震災は、若い担い手にバトンタッチするきっかけを与えたのだ。


筆:渡辺マサヲ

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